青の6号

The end meets the beginning.

2018彦根東の特色選抜入試【英語】の大問1の正答例の件

英語力を見る問題なら、せめて英語らしい文章構造にして欲しいと思う。

 

2018年実施の滋賀県特色選抜入試の彦根東高校の大問1→問題と正答例 http://www.hikonehg-h.shiga-ec.ed.jp/examproblem/14294.html

 

まず設問1。文脈から考えて、適切なフレーズを考える問題で、指定語数は5語から10語だ。当該参考の場所は第1パラグラフの第3文: Now, I'll tell you [  1  ]。従って、スピーチ全体から判断して書かれるべきである。しかし、正答例 "why he is studying African plants used as medicine" は第1パラグラフ後半のくだりのみに対応したもので、これから話すことの概要ではない。ここは、"about his study and its purpose/dream" (筆者)で十分。

  

次に設問2。That means I can change the world. を元の挿入位置に戻す脱文挿入問題。正答は I can make the world a little better. に続ける文としている。しかし、これでは同じ内容を2度述べているに過ぎない。せめて、 If I keep this, I will be able to give the world something better. (筆者) 程度の説明が必要だろう。

 

最もひどいのが設問5。先生の英語の質問に対してあなたなら何をするかを問う英作文問題。問題文に登場するショウタ君は、I want to do something that will help other people. とだけしか言っていない。他人を助けるために具体的に何をするかは何も言っていない。さらにその後、To do that, I need find things I can do. これからそれを見つける必要があると言っている。にもかかわらず先生の問いかけは「ただし、ショウタ君との発表と異なる内容にすること」という条件があるが、そもそもショウタ君は何をするのかを述べていない。

  

最後に本文の中で、変な英文だと感じるものがあった。

Now I have a bug dream before me.

夢が自分の前にある? この文は、Now I have a big dream in mind. とするべきだ。また、夢の内容がさっぱりわからないままで終わるのはいかがなものか? スピーチの終わりにはふさわしくない。

 

「スノビズム」犬尾春陽を読んで

 この小説は静かな恋愛物語だ。読後、静かに心に訴えてくる淡く切ない何かを感じた。

 文体に慣れるのに少し時間がかかった。書き手は頭の回転が速いのだろう、長めの文に出くわすと、僕はうっかり入り口の内容を忘れてしまい、出口とのつながりを見失ってしまう。そのたびに少し戻るのだが、そのうち慣れてきて、文の途中のひねりを予測しながら読めるようになった。

 スノビズムとは、プライドが高くて、かっこうをつけてる様を表す。COBUILD の snobbish の項にはこんな説明がある。too proud of their social status, intelligence, or taste。かっこうをつけるあまり、正直に生きられない、素直に自分を表現できないということだろうか。しかし僕は、「私」にもNにもスノビズムさは感じなかった。人間はだいたいこんな風に生きているのではないだろうかと思う。あるいは、スノビズムさを人はだれしも備えているのだということだろうか。

 この話の主人公「私」は彼のことをNと呼ぶ。あえて偽名の漢字表記にせずアルファベットで呼ぶからには、そこに特別の思いがあるはずだ。Nから始まるその人の本名は書けないが、その人を偽りたくないという思いの表れだと思う。お話は、そのNの行動と「私」の心理描写を描きつつ、ふたりの関係が徐々に解き明かされていく。いや、「私」が気づいていくというべきか。

 文体に慣れてしまえば、読む速度も速くなった。そして中盤にさしかかるころ、情景もしっかりと浮かぶようになってきた。情景はとても現実的で、実話かなと思える節の描写が随所に見てとれた。

 読み終えて心に訴えてくるこの淡く切ない何かは心地よい。涙の混じった悲哀のくせに、心地よい。どうしようもないことを目の前に、どうしようもないからという理由で、ただただどうしようもないことを眺めることの心地よさなのだろうか。僕は「私」に共感する。

 

直島の風景に殴られた(2)

 誰もいない海岸の透き通った波打ち際に足をそっと入れる。なんだこの海岸は、プライベートビーチみないな海岸は。

 

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 一泳ぎしてから木陰のベンチに座って乾いたそよ風にふかれながら、さっき行ったベネッセMuseumを思い出す。

 この美術館のデザインは、美術館本体をどこに建築するかから始まった。穏やかな瀬戸の海に突き出したこの半島に決まったのは当然の帰結のように思う。完璧なロケーションだろう。等高線をそのまま利用して立体的な導線を作り出している。眺め良し。例によってコンクリートで切り取った青空と、作品とのコントラストが見事だ。

 順路というものがない美術館は人々が好き勝手な順序で鑑賞してゆく。同じ方向だったり、ぶつかり合ったり、一カ所にとどまったり。やはり美術館は建築と作品との一体感がないと面白くないと、上下左右に続く道を歩みながら思う。京都〇代美術館の退屈な間取りと比較する。

 美術館へ続く道を、徒歩と専用小型バスに限定している点も評価できる。車でも行けないし、レンタル自転車でも行けないようになっている。周りの環境を保つには必要だ。

 さて、次は家プロジェクトゾーンへ行くか!

直島の風景に殴られた(1)

 直島に来た。直島は変に澄み切った観光地ではなかった。口下手でそれでいていい作品をこしらえる芸術家肌の旧友のようだった。

 何事も「そこ」へたどり着くまで真意はわからないのと同じで、直島に来て初めて直島の良さがわかった気がする。

 そもそも船着場が前衛建築だった。乗降客はそんなことはつゆ気にとめず往来する。しかしその建物の遠景には確固たる主張が見出された。低く地平と平行に広がるシンプルな長方形の屋根は人を迎え入れる形にふさわしい。磨り硝子のような素材は、柔らかな島民の思いを代弁しているのだろうか?

 島の人たちはみな明るくて優しい。美術館の入り口に戸惑う僕に声をかけるボランティアさん。お風呂上がりですか?」と気さくに声をかけてくれる刺身定食を運んでくれた女性。そして、お風呂の番台に座る女性のとびきりの笑顔。

 その銭湯の名前は "I love 湯" だ。古い昭和の銭湯を想像していた僕はその外観にガツンとやられた。これはナンだ?  近未来、ブレードランナーのワンシーンにも出てきそうな、昭和のポストモダンの素敵な建築ではないか! 中に入って更に驚いた。脱衣所にあるリメイクした黒い木の長テーブルは、よく見ると端っこにちいさなモニターが仕込まれている。映像は、胸をあらわにした裸の海女さんが船から素潜りするまでの(映画なのだろうか?)様子だった。思わず僕は声に出していた。「これはやられた!」。

 この銭湯を人に伝えるために一生懸命観察した。女湯との間の壁の上には象がいる。文字通り像だ。ほぼ原寸大の子象だ。湯船につかると濃いブラウングレーのそれを見上げられる。

 壁に並ぶ洗い場の鏡は六角形だった。それが両側の壁に並ぶ。奥の壁ははめ込みのガラス窓で、その向こうにシュロやら何やらの観葉植物がぎっしりと覆い茂っている。風呂全体はレトロ感ある白いタイルで敷き詰められている。清潔感のある白ではない。ところどころ遊びがある白のタイルだ。

 真ん中に湯船がある。床は浮世絵の屏風をデザインした感じの意匠が施されている。天井は吹き抜けで、抽象画がさらっと描かれた磨りガラスから外の光が入ってくる。映像で伝えられないのが残念。(続く)

プラトンとプランクトン4を読んで(4)

「へびのまぶた」を読んだ。

 

爬虫類にはまぶたはないのか? 思わずググる。すると「意外と知らない、ヘビにはまぶたはない」的なサイトがたくさん出てきた。そして、トカゲはまぶたがあり、まばたきをするが、ヘビにはまぶたがないため、まばたきをしない、のだそうだ。ヘビの目の表面には角膜の面に透明な鱗が並べられているのだそうだ。

「へびゆうんは、悲しい生き物やねん」

と「わたし」の祖母は言う。人間様をそそのかしたことが原因で、神にまぶたを引き剥がされたのだと。目を閉じることができないへびは、「ずっと見続けな」いとだめな生態となった。目を閉じられないことの悲しさ。

次第に明らかになっていく姉の様子が僕の頭の中で映像化される。それは僕にとって特に異様なものではない。むしろ(僕には姉や兄がいないので、よくわからないが)「わたし」の姉に対する畏怖が感じられる。

このストーリー全体に施される短く続く体言止めは緊迫感を与える。現実からレナさんの考える世界との橋渡しの役目をしていると感じた。そして短く切り取られた章立ても効果的だ。

風呂場でと、と、と水が水面を叩く音がする。

あれは現実だったのか、それとも白昼夢だったのか。その先はわからない。人はすべてを目にし、すべてを耳にし、すべてを感じとってはいけないのだ。

見続けなければならない目は何を象徴しているのだろうか。閉じたいのに閉じられない様はこちらまで苦しくなってくる。

 

ところで僕は小学生のころ、こんな経験をしたことがある。
ある日、突然視界のまわりが薄暗くなった。それを母親に訴えると私は眼科に連れていかれ、すぐに手術することになった。小さな小さな鉄片が目に入り、どうやら目の裏側に移動してしまったらしい。目に麻酔をかけられ手術となったが、痛みがないままに、そのまま目を触られるのは恐怖だった。痛みはないのに何もかも「見える」恐怖だ。先生のぼんやりとした白い影、メスらしきものが目に入る瞬間、天井のぼやけたライト。今もその感覚は思い出せる。