青の6号

The end meets the beginning.

「スノビズム」犬尾春陽を読んで

 この小説は静かな恋愛物語だ。読後、静かに心に訴えてくる淡く切ない何かを感じた。

 文体に慣れるのに少し時間がかかった。書き手は頭の回転が速いのだろう、長めの文に出くわすと、僕はうっかり入り口の内容を忘れてしまい、出口とのつながりを見失ってしまう。そのたびに少し戻るのだが、そのうち慣れてきて、文の途中のひねりを予測しながら読めるようになった。

 スノビズムとは、プライドが高くて、かっこうをつけてる様を表す。COBUILD の snobbish の項にはこんな説明がある。too proud of their social status, intelligence, or taste。かっこうをつけるあまり、正直に生きられない、素直に自分を表現できないということだろうか。しかし僕は、「私」にもNにもスノビズムさは感じなかった。人間はだいたいこんな風に生きているのではないだろうかと思う。あるいは、スノビズムさを人はだれしも備えているのだということだろうか。

 この話の主人公「私」は彼のことをNと呼ぶ。あえて偽名の漢字表記にせずアルファベットで呼ぶからには、そこに特別の思いがあるはずだ。Nから始まるその人の本名は書けないが、その人を偽りたくないという思いの表れだと思う。お話は、そのNの行動と「私」の心理描写を描きつつ、ふたりの関係が徐々に解き明かされていく。いや、「私」が気づいていくというべきか。

 文体に慣れてしまえば、読む速度も速くなった。そして中盤にさしかかるころ、情景もしっかりと浮かぶようになってきた。情景はとても現実的で、実話かなと思える節の描写が随所に見てとれた。

 読み終えて心に訴えてくるこの淡く切ない何かは心地よい。涙の混じった悲哀のくせに、心地よい。どうしようもないことを目の前に、どうしようもないからという理由で、ただただどうしようもないことを眺めることの心地よさなのだろうか。僕は「私」に共感する。

 

直島の風景に殴られた(2)

 誰もいない海岸の透き通った波打ち際に足をそっと入れる。なんだこの海岸は、プライベートビーチみないな海岸は。

 

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 一泳ぎしてから木陰のベンチに座って乾いたそよ風にふかれながら、さっき行ったベネッセMuseumを思い出す。

 この美術館のデザインは、美術館本体をどこに建築するかから始まった。穏やかな瀬戸の海に突き出したこの半島に決まったのは当然の帰結のように思う。完璧なロケーションだろう。等高線をそのまま利用して立体的な導線を作り出している。眺め良し。例によってコンクリートで切り取った青空と、作品とのコントラストが見事だ。

 順路というものがない美術館は人々が好き勝手な順序で鑑賞してゆく。同じ方向だったり、ぶつかり合ったり、一カ所にとどまったり。やはり美術館は建築と作品との一体感がないと面白くないと、上下左右に続く道を歩みながら思う。京都〇代美術館の退屈な間取りと比較する。

 美術館へ続く道を、徒歩と専用小型バスに限定している点も評価できる。車でも行けないし、レンタル自転車でも行けないようになっている。周りの環境を保つには必要だ。

 さて、次は家プロジェクトゾーンへ行くか!

直島の風景に殴られた(1)

 直島に来た。直島は変に澄み切った観光地ではなかった。口下手でそれでいていい作品をこしらえる芸術家肌の旧友のようだった。

 何事も「そこ」へたどり着くまで真意はわからないのと同じで、直島に来て初めて直島の良さがわかった気がする。

 そもそも船着場が前衛建築だった。乗降客はそんなことはつゆ気にとめず往来する。しかしその建物の遠景には確固たる主張が見出された。低く地平と平行に広がるシンプルな長方形の屋根は人を迎え入れる形にふさわしい。磨り硝子のような素材は、柔らかな島民の思いを代弁しているのだろうか?

 島の人たちはみな明るくて優しい。美術館の入り口に戸惑う僕に声をかけるボランティアさん。お風呂上がりですか?」と気さくに声をかけてくれる刺身定食を運んでくれた女性。そして、お風呂の番台に座る女性のとびきりの笑顔。

 その銭湯の名前は "I love 湯" だ。古い昭和の銭湯を想像していた僕はその外観にガツンとやられた。これはナンだ?  近未来、ブレードランナーのワンシーンにも出てきそうな、昭和のポストモダンの素敵な建築ではないか! 中に入って更に驚いた。脱衣所にあるリメイクした黒い木の長テーブルは、よく見ると端っこにちいさなモニターが仕込まれている。映像は、胸をあらわにした裸の海女さんが船から素潜りするまでの(映画なのだろうか?)様子だった。思わず僕は声に出していた。「これはやられた!」。

 この銭湯を人に伝えるために一生懸命観察した。女湯との間の壁の上には象がいる。文字通り像だ。ほぼ原寸大の子象だ。湯船につかると濃いブラウングレーのそれを見上げられる。

 壁に並ぶ洗い場の鏡は六角形だった。それが両側の壁に並ぶ。奥の壁ははめ込みのガラス窓で、その向こうにシュロやら何やらの観葉植物がぎっしりと覆い茂っている。風呂全体はレトロ感ある白いタイルで敷き詰められている。清潔感のある白ではない。ところどころ遊びがある白のタイルだ。

 真ん中に湯船がある。床は浮世絵の屏風をデザインした感じの意匠が施されている。天井は吹き抜けで、抽象画がさらっと描かれた磨りガラスから外の光が入ってくる。映像で伝えられないのが残念。(続く)

プラトンとプランクトン4を読んで(4)

「へびのまぶた」を読んだ。

 

爬虫類にはまぶたはないのか? 思わずググる。すると「意外と知らない、ヘビにはまぶたはない」的なサイトがたくさん出てきた。そして、トカゲはまぶたがあり、まばたきをするが、ヘビにはまぶたがないため、まばたきをしない、のだそうだ。ヘビの目の表面には角膜の面に透明な鱗が並べられているのだそうだ。

「へびゆうんは、悲しい生き物やねん」

と「わたし」の祖母は言う。人間様をそそのかしたことが原因で、神にまぶたを引き剥がされたのだと。目を閉じることができないへびは、「ずっと見続けな」いとだめな生態となった。目を閉じられないことの悲しさ。

次第に明らかになっていく姉の様子が僕の頭の中で映像化される。それは僕にとって特に異様なものではない。むしろ(僕には姉や兄がいないので、よくわからないが)「わたし」の姉に対する畏怖が感じられる。

このストーリー全体に施される短く続く体言止めは緊迫感を与える。現実からレナさんの考える世界との橋渡しの役目をしていると感じた。そして短く切り取られた章立ても効果的だ。

風呂場でと、と、と水が水面を叩く音がする。

あれは現実だったのか、それとも白昼夢だったのか。その先はわからない。人はすべてを目にし、すべてを耳にし、すべてを感じとってはいけないのだ。

見続けなければならない目は何を象徴しているのだろうか。閉じたいのに閉じられない様はこちらまで苦しくなってくる。

 

ところで僕は小学生のころ、こんな経験をしたことがある。
ある日、突然視界のまわりが薄暗くなった。それを母親に訴えると私は眼科に連れていかれ、すぐに手術することになった。小さな小さな鉄片が目に入り、どうやら目の裏側に移動してしまったらしい。目に麻酔をかけられ手術となったが、痛みがないままに、そのまま目を触られるのは恐怖だった。痛みはないのに何もかも「見える」恐怖だ。先生のぼんやりとした白い影、メスらしきものが目に入る瞬間、天井のぼやけたライト。今もその感覚は思い出せる。

 

プラトンとプランクトン4を読んで(3)

 

「そんなにいらない」を読んだ。

 

職業柄僕はつい、英語にするとどうなる? という視点で見てしまうけれど、この話も例にもれず、人称探しから英文構成をぼんやり考えてしまった。で、この話はかなり時制で苦労しそうだなと思った。そして、he、she が登場した時点で、ジェンダー問題の隠し味が損なわれてしまう。だから英訳は難しいなという結論になった。それくらいこの短編は、ジェンダーに関する読み手の思い込みを誘う面白い構成だったと思う。

二月が終わり、長い休みも折り返しに入っていた。

絵里花は若い。僕も彼女くらいの歳に、同じような経験をしたかもしれないような気がする。いや、「同じ経験」ではない。同じような胸の締め付けられ方といえばよいだろうか。

なめこさんはあたかも自らの体験を語るかのように第三者視点で話を描く。ときおり絵里花の心の中に深く入り込みながらの語りなので、読み手は一人称視点で読まされてしまう。つなぎ目が薄く、振り子のように読めてしまう。場面転換が巧妙で僕は何度か読み返して意味を理解しようとした。こういうところは訳者泣かせだ。いやいや、英語に訳す必要はないのだけれど。(笑

ただ湧き上がる心情を描けばよかったというようなストーリー展開は、気持ちが先行して言葉が後追いになる場合もあるが、僕は時々コンテキストを見失う場面があった。それは僕自身の理解のなさが問題だろう。

絵里花たちの服のデザインを思い浮かべる。デニールのタイツって何だ? 日高の容姿を修正する。えっちゃんの人格を再構築する。読んでいる途中でプロファイリングし直す。やはりジェンダーの問題はこの話の面白さだ。

 鍵を返すことに決めてから、もう一年は経っているはずだった。

別れは人生の至る所で起こる。絵里花と日高も一年前に別れている。同じような経験というのはこんな別れ方をした覚えがあるということだ。そのとき僕は日高側だったような気がする。だからというわけではないが、僕は日高のざっくばらんさが好きだ。

どんな別れ方をしのだろう? 二人はこれからどうなるのだろう? 時々気になってしまう。けれどきっと二人は思い出の中でしか出会うことはないのだろう。悲しいけれど、それを二人の糧にしてゆくしかないのだ(たぶん)。

絵里花は言う。

にんげんのからだを覆っているのは、たった一枚の皮膚なのだ。

この表現にドキッとした。そう言えば、私たち人間は継ぎ目のない一枚の皮膚をまとっているとも言える。トポロジー的には球体を覆うのが皮膚で、球体の中にいるのが私たちだ。こんな感覚は持ったことがなかった。面白い発想だ。「今自分は瞼の裏側を見ている。」という発想も。

そんなにいらないなあ。

(そうか、ここでタイトルが出るのか!)何となくHとMの二人を重ね合わせてみる。これは絵里花視点故に起こる現象。できれば絵里花には幸せになってほしい。だから僕は絵里花の携帯に非通知で電話して、こう言うんだ。「バッグにある例の封筒だけど、港に捨てちゃえば?」

きっと近い将来、僕は誰かと山下公園へ行き、くじらの背中に乗ってキングとクイーンとジャックを指さして、知ったかぶりの説明をするぞ。

プラトンとプランクトン4を読んで(2)

「饒舌で寡黙な彼女たち」でレナさんは、こう表現した。

彼女たちの言葉は液体なのだ。

液体なら、入れ物がなければそこに留まることができない。ただ流れ出るだけだ。言葉、とりわけ思考というモノは本来そういうものだろう。そこに秩序はない。視点も視座も自由だから、読み手は混乱する。吹き出した水はジャバジャバと地面に落ちるだけなのだ。そもそも語る相手を想定していない、夢のかたまりのようなものだから、紙とペンを持ち記録することもない。村上は執拗にその内側を描いた。そういう意味でまさしくあの句読点のない語りは液体だ。

レナさんはこう見る。

マゾとしていじめ尽くされた人間の殻を奪われ下の下の存在に貶められた彼女たちはさらに虫の地位にまで貶められついには自分の存在を見失う。

自分がマゾヒスト側になるのは想像できない。演じるならサディストだ。しかもそれは"to act" であって、"to be" ではない。多少の痛みの先の相手の悦びを想像するから攻撃的になれるというものだ。所詮は演技だ。しかし、ここに描かれる買う側は真のサドたち、そして、ここで一つの疑問がわく。買われる側の彼女たちは真のマゾなのかどうか。

虫で思い出した。私の娘は小さいころ虫が好きだった。5、6歳のころだっただろうか、彼女にはお気に入りの場所があった。それはぼうぼうに生えた芝生の庭の片隅にあって、少し湿気のある芝生の上に正方形の薄いコンクリートのブロックが無造作に置かれている場所だ。それを持ち上げるとその下にダンゴムシが大量に群れている。もぞもぞと蠢く様子はまさに虫だ。彼女はそれを確認すると、そっとブロックを元通りに置く。親である僕は面白いものだと、当時感心した。そういえば彼女の名前には虫という漢字が含まれている。

最後にレナさんは結ぶ。

…液体となった言葉が徐々に固まっていって、ひそかに蛹の時期を終えて羽化し、下の立場から皆を俯瞰する立場へと上昇することを、静かに、夢見ている。

 悲しい。もしこれがビジネスでないとしたら、あまりにも悲しい。僕は彼女たちを優しく包みたくなる衝動に駆られる。そして同時にこの最後の言葉は、レナさん自身の言葉なのではないのだろうかと思った。

プラトンとプランクトン Vol. 4を読んで(1)

深沢レナさんに会ったのは、朗読会ワークショップに参加したときが最初だった。初めて行ったマルカフェのマルカさんからその日の夕方、近くでそれがあることを紹介されたのだ。 ワークショップは存外に面白かった!

参加者は5、6人ほどだったけれど、テーマを与えられての作文や、輪唱のような全員で行う朗読はちょっとしたコラボ作品のような感じで、とても盛り上がった。 その日京都に帰る新幹線の時刻の関係で中座した僕の見送りで外に出てきてくれたレナさんは、マスクを外して見送ってくれた。美しい人だった。

後日、通販でプラトンプランクトン Vol. 4を買った。そして読書会の座談会を読むにあたり、村上龍の「トパーズ」をアマゾンで購入し、まずそれを読んだ。

村上龍の本を読むのはこれが初めてだった。座談会の冒頭で誰かが、村上龍は嫌いだみたいなことを語っていたが、僕も好きな作家ではなかった。村上龍氏の作品を読む機会がなかったので、いわば読まず嫌いというわけだ。

読んでみると氏のイメージが少し変わった。 「トパーズ」は、とあるホテトル嬢の内面を描いた作品で、彼はその女になりきって脳内にわき出てくる思いをそのままに書いていた。読点を限りなく用いずに、思考そのモノであるかのように書いた文は、意識された特徴的な技法の一つだと思った。

僕自身には、やや懲りすぎに感じたが、座談会では好意的にとらえる向きの意見が多かったように思う。そしてこの座談会の色々な人の意見を聞いて、村上龍がこの短編で何を伝えたかったのかを考えるきっかけを与えてくれた。そういう意味で読書会って面白いな。