青の6号

The end meets the beginning.

プラトンとプランクトン4を読んで(2)

「饒舌で寡黙な彼女たち」でレナさんは、こう表現した。

彼女たちの言葉は液体なのだ。

液体なら、入れ物がなければそこに留まることができない。ただ流れ出るだけだ。言葉、とりわけ思考というモノは本来そういうものだろう。そこに秩序はない。視点も視座も自由だから、読み手は混乱する。吹き出した水はジャバジャバと地面に落ちるだけなのだ。そもそも語る相手を想定していない、夢のかたまりのようなものだから、紙とペンを持ち記録することもない。村上は執拗にその内側を描いた。そういう意味でまさしくあの句読点のない語りは液体だ。

レナさんはこう見る。

マゾとしていじめ尽くされた人間の殻を奪われ下の下の存在に貶められた彼女たちはさらに虫の地位にまで貶められついには自分の存在を見失う。

自分がマゾヒスト側になるのは想像できない。演じるならサディストだ。しかもそれは"to act" であって、"to be" ではない。多少の痛みの先の相手の悦びを想像するから攻撃的になれるというものだ。所詮は演技だ。しかし、ここに描かれる買う側は真のサドたち、そして、ここで一つの疑問がわく。買われる側の彼女たちは真のマゾなのかどうか。

虫で思い出した。私の娘は小さいころ虫が好きだった。5、6歳のころだっただろうか、彼女にはお気に入りの場所があった。それはぼうぼうに生えた芝生の庭の片隅にあって、少し湿気のある芝生の上に正方形の薄いコンクリートのブロックが無造作に置かれている場所だ。それを持ち上げるとその下にダンゴムシが大量に群れている。もぞもぞと蠢く様子はまさに虫だ。彼女はそれを確認すると、そっとブロックを元通りに置く。親である僕は面白いものだと、当時感心した。そういえば彼女の名前には虫という漢字が含まれている。

最後にレナさんは結ぶ。

…液体となった言葉が徐々に固まっていって、ひそかに蛹の時期を終えて羽化し、下の立場から皆を俯瞰する立場へと上昇することを、静かに、夢見ている。

 悲しい。もしこれがビジネスでないとしたら、あまりにも悲しい。僕は彼女たちを優しく包みたくなる衝動に駆られる。そして同時にこの最後の言葉は、レナさん自身の言葉なのではないのだろうかと思った。